昭和45年12月19日 報徳祭 前夜祭



 二代金光様が、四神金光様が、親金光様の仰せに従われて、二代の生神としてあのような御比例が、あのう九州にも伝わって参りましたので御座います。いわゆる九州の道の恩人申し上げて、今度の明日のお祭りは以前は、四神様のお祭りだと、皆さん申しておりました。その四神様の御長男であられます、摂胤の君、いわゆる三代金光様が、また親金光様の後をお受けになられて、もう本当後にも先にもなかろうと思われるほどしの、ご修行を70年間もお続けくださいました。
 その三代金光様のお取次ぎ、御生存中に私が「道の教師にならせて頂いたら、結構です。」というお言葉を頂いて、道の教師を願わせて頂いて、要約20年ふりに道の教師にお取立て頂く言が出来た。そしてここに又この様にして人が助かって来る事がでけた。私は報徳祭というのは、徳に報いるという事なのです。ね、ですからそのご信心をそのお徳に報いるという事なのですから、ういう事かと。
 沢山な例えばお供え物を沢山して、立派なお祭りを仕えると言う事。勿論ですけれども、その根本になるものいうならば、四神様の御精神、又は三代金光様の御精神、又は私どもの初代又は先代、ね、継ぎて継ぎてのまにまに、合楽におかげを頂いて参りまして、三井教会、久留米、そして福岡、小倉と、大徳の先生方のお後を、こうして受けさして頂いておかげで、今日合楽が開けてきておるのでございます。
 ですから勿論四神様も勿論ですけれども、ね、勿論三代金光様は勿論の事明日のお祭りの対象でおありになる所の、お二方の神様達にお礼を申し上げると同時に、その御信心をひと受けにお受けになられた。桂先生とか吉木先生とか、石橋先生とか又荒巻弓二郎先生辺りの御信心を私は本気で頂こうという事だと。ね、その信心を頂いて本当におかげを頂く事だと私どもが。ね、私それがお徳に報いる事だとこう思うんです。ね、
 私は今日、末永先生が、今日のお祭り、今日のお祭りに限らんのですけれども、ここのお祭り度々に、前の日から御用、今日も今朝から、朝から見えられましてね、御用して頂いて、そして今日はこうして一緒に、参員として御用を頂いておられ、祓いの言葉を奏上されておられるときに、何か知らんけれども胸がつまった。何がこんなに私を感動させただろうかとこう思う。ね、
 桜井先生に導かれてまぁだ椛目の時代に、色んな難儀な問題、それでもまぁだ金光様の、いわゆる壱岐の教会のご長男として生まれておられたけれども、親の後を継ぐなんて金光様の先生になるなんて考えてもいなかった。段々椛目に足しげと通わせて頂くようになり、金光様の信心が少し有難くならせて頂いて、ある時の教組生誕祭に、神乍らなあのくじ引きが御座いますよね、もうそれが見事にその自分の信心を、ピタッとこう言い当てて下さるように、事に頂いたんです。
 あの時に桜井先生と、末永先生がね、座布団を引き当てられました。そしてその引き札にね、札になんと書いてあったかというとね、何でしたかね?すわりが、信心は先ず座る事からと、言った様な事が書いてある。そん時にですね。いわゆる親の思いが伝わってきたんです。親の祈りが伝わってきたんです。もうそれこそあちらの、お父さんは大変おとなしい方ですからね。
 それを押さえつけて、道の教師になさろうという事をなさらなかったけれども、もうそれこそこの子供達に自分の後を継がせよう、自分の信心を渡そうという、一生懸命の祈りがね、その様な形になって現れてきた事を悟られた。いわゆるそこからね、親の思いに添わせて頂こうという気になられ、学院に行くという事を決心され、ね、そして現在布教所から教会としてま壱岐の郷ノ浦で、御用になさっておられます。
 昨日一昨日先生が宗教の時間に、放送をなさっておられます。私それを今日、今日の新聞で見ましてね、あぁら惜しかったと思ったですけれども、私は思うた。合楽で稽古させて頂いておる、いわばその講題がね、「合楽の信心を」でありました。それはどういうことかというとあの講題がね、「賀びで開けた道」喜びとは賀正の賀。賀びで開けた道と題して、お説教なさっておられます。
 それが17日の朝放送されてある、ま惜しい事聞かれませんでしたけれどもね、ほんっとに例えば道の教師になどとは、夢思わなかった人が親の祈りに祈られて、その様なおかげを頂かれて、親の思いに答えて立っておられるその言が、私は今日は私の感動を呼んだんだなぁと思うた。なんというても私金光様の御信心はね、親の思いに沿う事からなのです。ね、私の信心の始まりもそうでした。もうこの親にと言う事。ね。
 そして段々信心させて頂よったら、その親がもう少し大きゅう親になってきた。段々信心を深めてまいりましたら、もっと大きな親がある事に気が付かせて貰い、その親の心任せにならせて貰う事が信心なりと、悟らせて頂くようにならせて頂いた。時にはもういうならば、例えば最愛の家内がなんというても、私の例えば厳しい修行の時代でしたから、とても付いてききらん。
 付いてききらんなら、来きらんでも良いという、決心です。家内からどうか言われてから、そんならっちとばっかり、信心を緩めようかといったような、思いは勿論、さらさらございませんでしたが、ね。勿論なら両親が私に申しました。昨日のお説教の中にも申しましたように、ね。けれどもね、それはもう、両親は私にとって世界一大事なものなんだけれどもね、その世界一大事な両親よりもね、もっと大事なもの。
 それはねその大事な両親がなんと言うても、神様の仰せには背かれんという、生き方にもうその当時なっておった。ね。いわゆる、大きな親の思いに添うということに、一生懸命。今でも同しこと。私の信心はそういう大きな親の思いに添う事に一生懸命なのですから、その一生懸命の、ひたむきな姿がね、場合には人間達は分からん事がある。例えば信心の常識で言うても、「大坪さんな変わったやつじゃある」という風に言われるときもある。笑われる事もありゃ、悪く言われる事もある。
 けれどもね、神様から笑われちゃならん、ていうのが私の信念ですからね、その神様の思いに添わせていただこう、ということに、まぁ一念を賭けさせていただいておるわけでございますのですれどもね、私ども九州に縁を頂いておるものは、とりわけ、その報徳祭というのは、そのような、意味合いの、深ーいお祭り。以前は御本部でそのお祭りが奉仕されるのは、いわば九州からお供え万端を桂先生がとりいられて、そして九州のお祭りとして御奉仕になっておられたのが、現在の報徳祭になっておられる。
 ですから私どもが桂先生の御信心に添わせて頂こうと思うなら、例えばあの報徳祭にですね、春秋の大祭は勿論大事ですけれどもね、九州の御大祭と九州の大恩人であるという、四神様の御大祭なのですから、そこに寸部の違いがあってはならない。思いを軽う観る事は出来ない。私はここん所にね、おかげが頂けれると思うんです。まぁ教組大まぁ2ヶ月前に教組大祭があって、あんなに言わば賑やかにおかげを頂いた。
 もう2ヵ月後の、もうまた四神様の御大祭、報徳祭じゃけんまあこん位で良かろうなんて言う事では、私この位で良かろうになってしまうと思うのですよね。今日もねある方がね、ありがたいですよ。昨日私はお米が十、十、二、三俵来ておった。そいで今度ははぁ今度はまあせいぜい来てから、十七、八俵、両方に、二八の十六俵も積まれるならまぁよかろうとこう思うよった。
 さあ夕方から私ちょっと出てきてからたまがった。もうずらぁっと大祭とおんなじごと廊下に並んでおる。ね。いわゆる、教組大祭とおんなじようにです、例えばおかげを頂いた。ね。それが私の思いの中にね、教組大祭だから、報徳祭だからというて、区別がないから、段々おかげを下さるのだと私は思うとります。皆さんでも同んなじこと。今日もそのある方がですね、朝、お参りをさせていただいてからですね、御祈念中ご理解を頂かれてから感じられたらしいですね。
 春秋の大祭には米ば一表お供えすることに決めとるけん、お供えさせて頂いた。ところがもう報徳祭は、もうお供えせんでん、もう誰かがしなさるじゃろうと。ま言うぐらいの気持ちがあったところがね、ふっとそのご理解いただきながら感じつかれたのでしょう、ここに出て見えてから、先生本当に思いの欠けておった事に恐れ入ります。神様がねもう先月、この人に田を作らせておられますから、上納を持ってくる。その時にねその今年は大変不出来だったから、一俵負けてくれっちいわっしゃった。
 ならあんた方へんがそげん困っちゃんなら、そらそげんでんよかばのっち言うとったけれども、実際持って来られた時には、やっぱり何時もの様に当たり前、言わば一俵はいらんっていよった、負けとった積りのつをまた持って来て頂いておる事を気が付いたと。神様が1.2ヶ月も前から、ちゃんとこうやって、準備しておって下さるのを、いわゆる報徳祭とそのお祭りをこうね、段をつけておった言が、相済まじゃったとしてです。
 今日はお供えなさった方があるんです。と言う様に私どもはもう特にですね。成程春秋の大祭は、そりゃ大事な事は勿論の事、けれども報徳祭はそのような、九州の大恩人でおありになる所の、四神様のお祭り。同時に合楽にとっては、又大恩人である所の、三代金光様のお祭り。なのですから私共の真心のいわば限りの、力の限りを尽くさせて頂く。しかもその尽くさせて頂き方がです。
 親の思いに添い奉る、例えて言うならば、桂先生の御信心に、または久留米石橋先生の御信心に、又は、荒巻弓二郎先生の御信心にです。愈々神習わせて頂いての、そういう信心を現せて行かなければならないと言う事をね思わせて貰います。いよいよ明日に控えました、御大祭幸い明日は日曜日になる。ですから明日はあの20日、久留米の教会でなんか、松栄会の行事もありましてね。
 先生方も見えられない方があるだろうし、又、御信者さん方はお付き合いで見え方も、恐らくもう見る人はなかろうと思いますけれども、ほんとの内内祭りになりますけれども。思いはそう言う所に置かせて頂いて、所謂三代様に、四神様に本当にお喜び頂けれる、信心に添わせて頂いてのお祭りで、ありたいと願わせて頂いております。みなさんも、どうぞそのお積りで拝まして頂く様に一言ご挨拶をさせて頂きました。
   どうぞよろしくお願いします。